写真表現の覚書4
4.拠ってたつ日常をみつめて 
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よく子どもの遊びは「聖なる仕事」といわれる。幼い五体による「生の表現」を抽象化した言い方かもしれないが、それだけでもなさそうだ。

子どもは遊びを通して人を知り自分を知り社会を知っていく。その純粋無垢な交わりのなかからさらに、だれ人たりとも力のおよばないなにものかが存在することを知ったり、その魔訶不思議な存在を大人へのパスポートとして未完成な自分自身をも確認していくのではないだろうか。

子どもたちに伝承される「探検あそび」は科学的思考に慣れた大人には理解しがたい内容であり、古代社会の核をなしていた呪術のような超現実的なものへの感心を物語るにあまりある。

ステレオタイプ化された“死の仮面”的映像が日常の表面をおおいつくしていることは事実だとしても、次のような状況も確認しておく必要があろう。それは日常をささえる“聖”“俗” 合一の底流である。

日本の民族学者はどちらかといえば“聖”と“俗”を区別して学問に体系化してきた。しかし、レヴィ=ストロースは「日本には聖と俗が隣あって存在して、その間に厳しい区別がないこと、これが特徴だ」との仮説を発表している。

ここでこの仮説を引用するのは、確かに日本人の生活にはこの仮説にうなずける現象が多いように思われるし、先に引用した子どもの遊びにしてもその基本概念は同じであり、生死即涅槃とか瞬間即永遠など聖俗の現象を区別しない仏教思想が根強く人々に影響を与えている現実もあるからである。子どもの生きる姿勢は、五体を発動させることをも含めて「全の思想」に支えられている。価値の多様化といわれる今日のもうひとつの現象はこの百科の学問がさらに派生したことによる分類された日常“俗” の現出であり、智慧にささえられた「全の思想」“聖”が潜在化した日常であろうか。

だからといって日常における聖俗合一の地平は価値の多様化の前に屈するほど加速度を失いきってはいない。なぜならば、ステレオタイプ化された映像は、この多岐に分類された日常に寄生しているにすぎず、人々の日常はこの分類された私有的空間性を保持・限定しているにすぎないからである。いわばステレオタイプ化された映像といっても所詮は保守化した日常の産物にすぎないのである。次の例によってそのことは明らかだ。

ある小説家が数十人の大人の会合で、これまでの人生で一番印象に残っている思い出を絵に描いてほしい、と言ったところ、その大部分が日頃思い出すこともなかった幼少の頃に遊んだ思い出を描き、しかも鉄棒やブランコから落ちたときの衝撃的な場面を描いたという。このことは記憶のどこかに子どもの頃に遊んだ経験が明瞭に刻みこまれていることの実証であり、またある刺激によってその経験を瞬間にして思い出したということでもある。

そして子どもの頃の遊びを聖なる営みと言い切ることはできないまでも、突然に幼少の頃を思い出し絵に描いたという作業それ自体、ステレオタイプ化された精神構造に一石の波紋をなげかけることが出来たということである。さらにこの実験で興味深いのは小説家という歴史性をもつ個人に反応して、それぞれ違った歴史性をもつ個人が、幼少の頃の同じような時間性を覚醒していることである。これは人間にはそれぞれ違った体験(空間)がありながらも、共通の印象(時間)が潜在していることともいえようか。

津田新一が日本神話の“天の岩戸”で闇に不滅の笑いをどよめかせた八百万の神々は「日本人の生きざまの原型」ではなかったかと述べ、一神教・現人神に派生する「私有の空間性に気をとられすぎたぼくらの目から八百万の神は姿を消した」といっている。

つまり「“自分史”の固有の時間性を守る闘いはそれ自体、人間的な固有の時間性の根源に宿る(八百万の)神々の復権を意味する」というものである。この固有の時間性の根源に宿るものが神々であるかどうかはとにかく、のちにふれるユングの「集団心」にもよく似た概念として我々の生命に脈打っているのかもしれない。

いずれにしても時間性に対する考え方としては適切ではないだろうか。もしそうだとすれば、古代芸術作品をヴィジュアルな写真映像として見たときに感ずる力強い迫力はどこからくるのか、といった多くの人々がいだく疑問もこれらの考え方によって解くことができるであろう。

この映像の力動性についてはC・パヴェークの考え方にそってもう少し具体的に述べてみたい。いずれにしても聖俗合一であるべき日常が、多岐に私有化された“俗”としての日常のために、固有の時間性の根源に宿る“聖”を見失ってしまったのだ。そういえば「写真」のことを、光りで書く「Photograph」、写真向きの被写体を「Photogenic」などと言っているが、「Photo Genie(ジェニエ=精霊)」と解釈すると“光りの精霊”となる。

見失ってしまった“聖”とはこのGenie“精霊”のことを意味するのかもしれない。
1.はじめに真表現の覚書