写真表現の覚書
5.写真の力動性について 
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先の章で、日常にうもれた人間に共有の時間性を発掘することによって映像を蘇生できるのではないか・・・
についてふれたが、ここではもう少し詳しく掘り下げてみたい。

たとえば古代社会あるいは原始社会といった抽象的な概念を我々は知っているが、それはあくまでも科学的な知識として画一化された知識として識っているにすぎない。しかしひとたび具象的な壁画や土器が(映像として)呈示されるやいなや、はるか昔としてしか概念化していなかった古代あるいは原始社会(潜在化した時間)が瞬間にしてわがもののように現実によみがえるのである(時間の顕在化)。
このとき古代社会への親密性が決定的に獲得される。このドラマをC・パヴェークは『みぞおちへの一撃』と表現している。

またこの『みぞおちへの一撃』をなす“実存的な具象”という言葉はどのような被写体にレンズをむけるかについて考えるうえで重要なポイントとなっていく。つまり「写真の本来の力動性は客体化された精神をではなくアクチュアルな精神を撮ろうとすること」であり、さらに「写真の本来の意味におけるアクチュアルな精神の対象とは個人である」ということである。

これは個人の歴史性が、さまざまな実存的具象と出会うことによって、その歴史性(時間性)とスパークすることを意味する。このとき例えば古代芸術作品に自分と共通の時間性を感じた人間が古代社会の人間にこだわりをもっても何の不思議もないし、さらには己の時空性を省みることが同時におこなわれても何の矛盾もない。映像の力動性とはそういうものであるからだ。

ただここでいう時間性とは先に述べた幼少の頃の体験といった規模とは全く次元の違う意味合いのものである。したがって共通の時間性を感じたからといってもそれは言葉や絵に表現できるようなものではなく、『みぞおちへの一撃』とかそれに近い抽象的な概念でしか表現できない代物なのである。

その心の奥の意識にのぼらない部分を発見し「人間の生命の奥低は、人類共通の基盤を形成している」といった深層心理学者・ユングの学説をみると、人間がもつ時間性の規模の大きさはじつに広大無辺といえよう。つまり「人間の心の内奥は、個人無意識と集団無意識の二つの層からできあがっていて、この集団意識(集団心)には、人類全体に共通して少なくとも百万年間の人類の体験がすべてうけつがれ、潜在している」というものである。

いわば「記憶の貯蔵庫」(共業)がそれぞれの人間の無意識層に生きづいているのである。大なり小なり五体を震たんさせる映像とはこの過去・現在の時間性を意識化させるだけの力動性をもちそなえているはずであり、映像としての価値もここにあるのではないだろうか。

それはいうまでもなくセンセーショナルな震たんではない。ステレオタイプ化された映像でおおわれた日常に生きていたとしても、そのぬけがらの殻を払拭して固有の歴史性をゆさぶるだけ強烈な、八百万の神々の復権をうながすだけ強烈な震たんなのである。

人間はだれでも時間と空間のワクを通して万物を見る「心の能力」がそなわっているとカントはいった。しかし60年以後、デラシネと化した日常と映像によって「心の能力」が欲望の色メガネにせばめられていなかっただろうか。シュールレアリストが愛にうつつをぬかし、芸術家が幻想芸術にやっきとなってとりくむのは、ひっきょう「心の能力」の再発見へのあがきでもあろうか。

空間性の規模は宇宙大であり、時間性の規模は百万年間の人類の経験のすべてであるとしても「心の能力」を蘇生させ「集団心」を覚醒させていくには、表現者として多大な技術が要求される。しかし、まずは「見る」ことを最も優先させるのがカメラマンの技である。その表現の生死を決定的にするほど重要なポストをしめている「見る」技をまずは構築していかねばなるまい。


この「見る」わざをみがかずして対象の時空性を見抜くことはできるわけがない。ましてやステレオタイプ化された感情では『みぞおちへの一撃』をくらわすほどの実存的な具象をみつけだすことは、とうてい不可能な技であろう。

大辻清司はこのステレオタイプ化された感情を「制度化された思い込み」といっているが、「制度化された思い込み」とはこれまでの写真家の「見る技」ではなかっただろうか。この「制度化された思い込み」を破壊して見る技を構築するとは、じつは、自分の時間性をふまえて実存的な具象からなる対象を「どう受けとめるか」ということにもなるのではないだろうか。この点については、本論の結論として次に述べてみたい。
1.はじめに真表現の覚書