写真表現の覚書6
6.表現内容を外にもとめて
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これまではたてまえに対する本音としての私性を、逃げ込むべき内部世界として理解してきた。しかし今後は自分の内的世界にこだわり唯美主義に傾注していくのではなく、本音としての私性を明らかにしながらも「内容というものは内側にあるのではなく外側にある」という発想にたつことである。

ここでいう内容とは、写真の内容とか写真家の内的世界を意味するのではなく、写真家独自の時間性と対決する外的世界、つまり、社会的条件やその条件に働きかけていく姿勢にウエイトをおいている状態をいうのである。つまり内容は外にあるということになる。外部といかにかかわったかということが即写真家の内容となり、写真家と外部世界を不二なものへと昇華させていくところに、C・パヴェークのいう「写真の対照は個人である」という概念の拡大も可能になるのである。

このとき写真は自分一人の私有化された時空ををはなれる。自分を離れるというよりは他人の時空へとひろがっていくであろう。

「時代の目撃者」といった気負ったことばが一人歩きをはじめるのも無理のないことであった。なぜならば表現者は時代を目撃するために社会に関心をよせるのではないからだ。
それは八百万の神々は一神教の前には姿を現わさないがゆえに、表現者は外の世界にむかって自分自身を出しきることにほかならない。このときはじめて八百万の神々は目覚めるのである。時代を目撃するとは、まさに一神教的な傲慢のなせるわざではなかったか。

それにしても伊奈信男が「写真に帰れ」のなかで、「吾々が写真芸術によって“現代”に最高の表現を与えるためには“カメラを持つ人”は何よりもまず最も高き意味の社会的人間たらねばならぬのである」といっていた。

48年も前のことである。この“最も高き意味の社会的人間”とはどういう人間であるのかよく説明されてはいないが、D・リースマンの社会科学的分析による、自律した他人指向的な人間にその生き方をみいだすことができそうである。

リースマンによれば「他人指向的な人間は内部指向的な人間よりもさらに多くの自我意識を持っている。だから自我意識の強い条件のなかで育つ自律的な人間は、適応型の人間と自分を区別するためにはさらに大きな自我意識をもつことが必要となってくるのだ。自分の持っている感情を否定したり、仮面をかぶったりという安易なやり方では自律性は保証されえない。
かれが自律的でありうるためにはかれは自分自身の実感と潜在的な能力と自分自身の限界とを見極める努力に成功しなければならないのである。これはけっして量的な問題なのではない。それは自我意識、それ自身という問題を意識しているということであり、非常に高度な抽象作業を達成するということでもある」。

ただしリースマンはこの自律した他人指向型の人間をユートピアとして描いているにすぎない。それだけ社会的行為にたえられる自我を獲得することは難しいということだろう。
しかし、自分のオリジナルな時間性にのっとった社会的行為のなかで、自我を築きあげるその作業をささえるものこそ、(1)はじめに・・・で述べたヴォリンゲルのいう「意欲」ではないだろうか。

それは伝統指向型の人間が内部指向型の人間に、内部指向型の人間が他人指向型の人間にそれぞれなりえたとき、その人間をささえていたものがとりもなおさず「意欲」そのものであったことにもあきらかである。

しかし、その「意欲」によって最も高き意味の社会的人間としての自律した他人指向型の人間でありえたとしても、表現者として心しなければならないことは、仮面をぬぐいすて感情をぶつけることによって自我を築きあげるべきテリトリーとしての社会を、時代・歴史とのかかわりあいのなかで、受け止めなければならないということである。もしそうしなければ私有化・制度化された時空に自我が埋没してしまい、またしても写真映像が希薄化の運命をたどることになる(文中敬称略)(完)。
=1980年3月 志民賢市=

参考文献

「抽象と感情移入」ヴォリンゲル著 岩波文庫/「視覚時代」C・パヴェーク著 美術選書/「写真芸術論」重森弘淹著 美術出版社/「写真論」S・ソンタグ著 晶文社/「美と芸術の理論」シラー著 岩波文庫/「呪術」P・ヒューズ著 筑摩書房/「今昔こども遊び」馬場富子著 錦正社/「欲望と生命」原島崇・川田洋一著 レグルス文庫/「孤独な群衆」D・リースマン みすず書房/「世界」1978年8月号 岩波書店/「写真批評」No1 〜No7 東京綜合写真専門学校/「カメラ毎日」1978年9月号 毎日新聞社/「アサヒカメラ」1978年4月・増刊号 朝日新聞社/「太陽」1970年7月号 平凡社/「写真芸術を語る」金丸重嶺著 朝日新聞社。

1.はじめに真表現の覚書